じいさんが死んだ話と人生最初の通夜・葬式の話 後編

私がびっくりしたのはここからである。


父と叔父と私、その他親類数人で棺桶を霊柩車まで運んだ後、棺桶は火葬場まで運ばれていった。私は葬式に参列するのは初めてだったので、後のことは葬儀関係者に任すのではないかと思ったのだが、父に確認するとこの後自分たちも車で霊柩車を火葬場まで追い、火葬に立ち会うという。少し雨がふったおかげで熱さが多少和らいだ中を火葬場まで母の車で行った。
火葬場まで到着するとすでに祖父の棺桶は火葬のための炉の台にセットされており、親類皆が見ている前でゆっくりと炉の中へ収められた。その後点火のボタンが押された。施設の方によると二時間ほどで骨のみになるという。私は先ほどまで遺体とはいえ人の形をしていた祖父が、今火で燃やされているという事実がどうにも受け入れがたいというか、しっくりこない違和感を持ちながら見ていた。なるほど、火で焼けば骨だけになる、まさに人は生物だと頭では考えながらやはり実感できないズレた感覚が残った。

この後一旦葬式があったホールへ戻って、親戚一同で昼ご飯を食べた。全体的に皆言葉少なだったのだが、ポツポツと祖父の話も出て、第二次大戦時に釜山と新潟の間を輸送船で往復しながら魚雷でやられて泳いでなんとか助かった、などの話を聞いた。

私がもっとも驚いたのはここからである。火入れから二時間後、遺骨の骨拾いをするということでもう一度親戚一同先ほどの火葬場まで行った。さきほどは気付かなかったのだが、火葬場の手前数十メートルのところに老人ホーム、火葬場の奥に墓場があるのを見て笑っていいのか笑えないのか苦慮しながら先ほどの炉の前まで行った。そこで見たのは、火入れの直前の棺桶が置かれた状態と非常に似ていたが、そのときとは違って棺桶も、花も、そして祖父の肉体もない骨だけになった祖父の遺体だった。そこには理科室で見るような骸骨の全身が置かれていた。違うのはそれが正しく数日前まで人だった、ということだけである。
叔父がずいぶん綺麗に焼けるんですね、と施設の方に聞くと、一旦骨を綺麗に並べているという話だった。骨の色が所々紫や赤、黄色になっているのは花の色が移ったためらしく、生々しい骨の感触と妙にファンシーな色がよりいっそう現実感をなくしていた。

そこから骨壷に入れる、ということで祖父の骨を少しずつ収めていった。最近は昔のような箸渡しは行わないらしい。また骨壷にすべての骨は収まらないということでその一部のみを骨壷に収めるのだが、施設の方が祖父の骨を簡単にポキ、ポキと追っていくのには少し驚いた。周りを見回してみたが、父も祖父も何も言わなかったということはそういうものなのだろう。

その後、なにやら四十九日は三月にまたがってはいけない、という迷信があるらしく、その関係でその日中に初七日を終わらせてしまうということでもう一度お焼香をしたのだが、火葬場でのインパクトが大きすぎてその当たりの記憶はあいまいである。ただ、火葬場の下、老人ホームの隣に焼肉屋があるのを見つけたときは今度こそ笑いたくなった。

終わりに

なぜこのような誰の役にも立たない長い文章をブログに載せることにしたのかというと、私の、祖父への弔いを一つの形にしたかったからである。祖父が死ぬ以前から縁遠かった上、通夜から式の最後まで終始混乱しっぱなしで父や近しい親類のようにうまく受け入れることが出来ていなかった。式の間も何を喋っていいのかわからず、何を言っても間違っている気がして混乱したまま結局ほとんど祖父に関して話すことが出来なかった。
正直なところ今でもまだ混乱から抜け出ておらず、どのように祖父の死を受け入れればいいのかわからないままである。ただ、祖父が死んだことと、私がそれに対してどう感じたかを書くことで、できれば祖父を直接知らない人にもできればその死を知ってほしいと感じたため、まったくエゴイスティックだとは感じつつもここに書く次第となった。もし同じような体験をしている人がいて、この乱文がその一助とならずとも何らかの参考になればそれこそ幸いである。